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王都リオネールに、静かな朝が来ていた。 あの夜から、一月が経っている。 王宮の広間には、以前とは違う澄んだ光が差し込んでいた。「これより、エルネスト・ド・リオネール殿下の戴冠の儀を執り行います」 カリドンの声が広間に朗々と響いた。 その声には、迷いも虚ろさもなかった。 諸侯たちが居並ぶ中、エルネストが玉座の前へ進み出た。 その隣には――クラリッサが寄り添うように立っていた。「レオポルド公爵」 カリドンが公爵へ声をかけた。「正式な立会いを」「うむ」 公爵は前へ進み出た。 蒼い理紋の光が、彼の手から灯る。《メモリアーカイブ》「王家の理紋、その正統なる系譜――今、ここに記録する」《解析》【継承権:確認】《共鳴》【継承権:確認――ただし、当代における継承の意志なし】 公爵の視線が、広間の隅に立つルシアンへ向いた。 彼は剣を携えた騎士の装いで、落ち着いた様子で立っていた。 その表情に迷いや後悔はない。 王位ではなく、自らが選んだ道を歩む。その決意が、彼の佇まいに表れていた。【継承、正式に確認】【新王:エルネスト・ド・リオネール】 その文字が、王家の記録として刻まれていく。 今度は――誰にも消されることのない、確かな真実として。 王冠がエルネストの頭上へ置かれた。 諸侯たちから割れんばかりの歓声が上がる。「新王陛下、万歳!」「リオネール王国に、栄光あれ!」 エルネストは、広間を満たす歓声を受け止めた。 そして、隣に立つクラリッサへ視線を向ける。「クラリッサ」「はい」「共に、歩んでくれるか」 その言葉に、クラリッサの瞳から涙が溢れた。「はい」 彼女は深く頷いた。「どこまでも」◇ 戴冠式の後、王宮の庭園で婚礼の儀が執り行われた。 白いドレスに身を包んだクラリッサの傍らには、正装したエルネストが立っている。「誓いの言葉を」 神官の声が庭園に響いた。 エルネストはクラリッサの手をそっと取った。「私、エルネストは、クラリッサを生涯の伴侶とし」 彼の声は、いつもより僅かに震えていた。「共に、この国の未来を育てていくことを誓う」「私、クラリッサも」 彼女は言葉を継いだ。「エルネスト様と共に、この国の未来を育てていきます」 そして、微笑んだ。「私たちが出会ったあの離宮のように、小さな種
クラリッサの握りしめた手の先で、マリアの姿が揺らいでいく。 薄桃色、青、白銀――三つの光が重なった奔流が、 王都全域の力を集めた黄金の「核」へ深く突き刺さっていた。「あああああっ……!」 マリアの悲鳴が、物語の内側に響き渡る。 黄金の本が大きく震えた。 ページが一枚、また一枚と光の粒子になって剥がれ落ちていく。「これは……」 マリアは固定空間を見渡した。 鎖が次々と砕けていく。「私の……力が」「マリア」 クラリッサは、まだマリアの手を握りしめたまま、彼女を見つめた。「怖いですか」 マリアは、しばらく答えなかった。 やがて、ためらうように頷いた。「怖い、です」 その声は、これまでのどんな時よりも幼く、震えていた。「この力がなければ、私は……また、何も選べないあの頃に戻ってしまう」「戻りません」 クラリッサは、はっきりと答えた。「あなたは、もうあの時とは違います」「何も選べない子供じゃない」 その言葉に、マリアの瞳が揺れた。 エルネストの青い鎖とルシアンの白銀の鎖が、最後の力を振り絞るように輝きを増す。「終わりにしましょう」 エルネストが告げた。「三人で、いくぞ」 ルシアンが頷く。 三つの理紋が一斉に輝き、その光を最大まで高めていった。 クラリッサは、マリアの手を握ったまま、最後の言葉を紡ぐ。「この分岐点で――」「私は、この国の運命を書き換えます」「マリア様が固定しようとした、すべての真実を」「本来あるべき――選べる未来へと」 パリンッ――。 澄んだ音とともに、黄金の本が砕け散った。 同時に、クラリッサの背後に浮かぶ《アナスタシス・コード》の本が、 これまでにない強い輝きを放つ。 それは、この国の歴史そのものへと刻まれていく光だった。 無数の欠片が、金色の空間いっぱいに飛び散っていく。 それらは、マリアが王都全域から集めた無数の「固定」の残滓でもあった。 砕けた光の粒子が一つ、また一つと、まるで故郷へ帰るように王都の方角へ散っていく。「あ……」 マリアの身体から、最後の黄金の光が消えていった。【機能停止】 同時に、クラリッサの《アナスタシス・コード》の本も、最後の輝きを収めていく。 書き換えは――成された。 もう、二度と後戻りはできない。 金色の空間そのものが揺らぎ、崩
「まだ来るのか……!」 エルネストが声を上げる。 ルシアンは剣を構え直し、銀白色の光を広げた。「クラリッサ、無理はしないで!」「大丈夫……!」 クラリッサは、迫り来る鎖を見据えた。 マリアの力は、まだ強い。 けれど、その根幹は確実に揺らいでいる。 ここで退けば、再び固定されてしまう。 彼女は桃色の鎖を束ね、三人を守る大きな盾を作り出した。 金色の鎖が盾に激突する。 衝撃が空間全体へと広がり、桃色と金色の光が激しく弾けた。 エルネストが解析を続け、ルシアンが共鳴を繋ぐ。 二人の力に支えられながら、クラリッサは一歩も退かなかった。 そして、衝突の余波が届いた先で――。 プリムローズ・メモリアの核心が、大きく揺れた。 金色の空間に、無数の亀裂が走る。 マリアの本も、クラリッサの本も、その光を受けて震えていた。「あなたの真実は、もう揺らいでいる……!」 クラリッサが叫ぶ。「だから、もう――」 言いかけた、そのときだった。 マリアの本が、ひときわ強い光を放った。 金色の鎖が再び伸びる。 だが、その鎖はクラリッサたちへ向かうのではなかった。 マリア自身の腕へ。 脚へ。 その身体へと、幾重にも巻きついていく。「……え?」 マリアが、呆然と自分の身体を見下ろした。 彼女が固定しようとした真実が、彼女自身を縛り始めていた。「私は、ただ――」 言葉が途切れる。 金色の鎖が軋み、マリアの本が不規則に明滅した。 その光景を見つめながら、クラリッサはゆっくりと手を伸ばした。 桃色の鎖を、一本だけ解き放つ。 それは攻撃のための鎖ではなかった。 マリアの本の中心へと、そっと触れるためのものだった。「……マリア」 クラリッサの声が、静かに響く。「私が、あなたと話すのはこれで最後」 桃色の光が、金色の本へと染み込んでいく。「この書き換えが、幸せとは限らない」 クラリッサは、目の前の少女を見つめた。「でも、わかって。あなたが、本当は何を望んでいたのか」 桃色の光が、本に走った亀裂へと流れ込む。 金色の頁が、静かに開いた。 そこに浮かび上がったのは、マリアの記憶だった。 小さな手が、母親の手を握っている。 誰かが優しく「私がいます」と告げてくれた日。 そして、学園で目にしたクラリッサの笑顔。 絶望だけ
金色の光と桃色の光が、互いに押し合いながら拮抗していた。 クラリッサは、意識を失ったままのエルネストを抱きしめる。 彼の理紋は、今も少しずつ薄れていた。 このままでは、押し切られる。 マリアの力を正面から押し返すだけでは、決定的な一撃にはならない。 どうすればいいのか。 考えを巡らせるクラリッサの腕の中で、エルネストがわずかに身じろぎした。「……クラリッサ」「エルネスト! 気がついたの?」「ああ……どうにか、ね」 彼は苦しげに息を吐きながらも、クラリッサを見た。「話は聞こえていた。ジュリアンがまとめていた記録も、思い出したよ」「記録……?」「君の《アナスタシス・コード》と、マリアの《ファタリス・シール》。 二つの力には、決定的な違いがある」 エルネストの声には、まだ力が戻りきっていない。 それでも、その瞳には確かな光が宿っていた。「君の力は、一度書き換えた歴史を元には戻せない。 けれど、マリアの力は違う。彼女が固定しているのは、あくまで真実の形だ」 クラリッサは息を呑んだ。「つまり……その真実そのものが崩れれば?」「固定も維持できなくなる。そうなれば、抑え込まれていたものが元に戻り始めるはずだ」 マリアが作り上げた、揺るぎない真実。 彼女の望む物語を正しいものとして固定し、それ以外の可能性を封じ込める力。 ならば、その根幹を揺るがすことができれば――。「……やってみる」 クラリッサはエルネストを支えながら、正面を見据えた。 そこには、金色の光を背負ったマリアが立っていた。「まだ抗うのですね。ですが、ここは私の物語の内側。 プリムローズ・メモリアの核心ですわ」 マリアが両腕を広げる。「この場所では、私の理こそが絶対。 あなたたちが何を望もうと、私の真実を覆すことなどできません!」 その背後に、巨大な本が現れた。 金色の装丁を持つ本には幾重もの鎖が巻きつき、閉ざされた頁を拘束している。 表紙に刻まれた紋様が輝くと、周囲の金色の光が一段と強まった。【《ファタリス・シール》】 【完全展開】 対するクラリッサの背後にも、巨大な本が姿を現す。 桃色の光を放つその本は、マリアのものと対をなすように浮かび上がっていた。【《アナスタシス・コード》】 【完全展開】 二つの本が、互いを認
黄金の光の中、クラリッサは目を開けた。 周囲はどこまでも金色に染まっていた。 現実の広間とは違う。 まるで、世界そのものの裏側に迷い込んだかのようだった。「殿下……!」 彼女の腕の中で、エルネストがぐったりと意識を失っていた。「殿下、しっかりしてください!」 彼の理紋は、僅かに明滅しているだけだった。 まるで、少しずつ光そのものが消されていくかのように。(存在が、消えていく……)(マリア様の言った通り) クラリッサは胸元にそっと手を当てた。「アナスタシス・コード」 薄桃色の光が静かに灯る。 だが、周囲を満たす黄金の光に比べれば、その輝きはあまりにも頼りなかった。「クラリッサ様」 声が響いた。 振り返ると、そこに――マリアが立っていた。 現実の広間にいたはずの彼女が、この裏側の空間にも存在している。「ここは、あなたの領域なのですね」 クラリッサは静かにマリアを見据えた。「ええ」 マリアが頷く。「固定された真実の中。私の物語の内側です」「エルネスト殿下を返してください」「お断りいたしますわ」 マリアの声は穏やかだったが、その意志は揺るがなかった。「ここで消えていただければ、物語はより正しい形になりますもの」「解析の力は、私の真実にとって目障りですから」 クラリッサは拳を強く握りしめた。「マリア」 これまでにない低い声で、彼女は聖女を見据えた。「私は、あなたの過去を見ました」 クラリッサの決意に満ちたまなざしから、マリアは僅かに目を逸らした。「辺境伯家での日々」「プリムローズ・メモリアで知った絶望」「そして――孤児院での、あの涙」「……やめてください」 マリアの声が初めて震えた。「あなたに、何が分かるというの」「分かりません」 クラリッサは正直に答えた。「私は、あなたと同じ苦しみを味わったわけじゃない」「でも」 彼女はまっすぐにマリアを見つめた。「あなたが、何も選べなかった日々を抱えていたことは知っています」「だからこそ、聞きたいんです」「なぜですか」 クラリッサの声が僅かに震えた。「なぜ、他の誰かからも選ぶ権利を奪うんですか」「あなたが一番、辛かったはずなのに」 マリアはしばらく沈黙していた。「……選べることが」 やがて、彼女は静かに口を開いた。「幸せだとは限
黄金の光に満ちた広間の中央。 アルトリウスは、王冠を受け取ろうとしていた。 その手が、僅かに震えている。「殿下」 マリアが静かに王冠を差し出した。「さあ」 その声は、変わらず優しかった。 だが、アルトリウスの指先は王冠に触れる寸前で止まっていた。(……何だ) 彼の中で、小さな違和感が生まれていた。(先ほどから――何かがおかしい) 視界の端。光の渦が消えた場所。 確かに、誰かがいたはずだった。(クラリッサ……?) その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、彼の《真理》が微かに反応した。 これまで、マリアの前では決して働かなかったはずの力が。【真実:検出】【対象:広間の認識】【矛盾:発見】「……っ」 アルトリウスは僅かに顔を歪めた。 頭の奥に、小さな亀裂が走るような痛みが生じる。(人が、消えた)(誰も、それを気にしていない)(おかしい)(これは――正しくない)「殿下?」 マリアが僅かに首を傾げた。「どうかなさいましたか」「マリア」 アルトリウスの声は掠れていた。「エルネストは……クラリッサ嬢はどこだ」 その問いに、マリアの瞳が一瞬、鋭く光った。 だが、すぐに穏やかな微笑みがそれを覆い隠す。「お二人でしたら」 マリアは口角を上げた。「所用で席を外されただけですわ。何も心配することはありません」「戴冠の儀が終われば、きっと戻ってきます」 その言葉は、あまりにも自然だった。(そう、なのか)(それなら――) そう考えると、胸に生まれた違和感も少しずつ薄れていく。 だが、その瞬間――彼の《真理》が再び震えた。【矛盾:継続検出】【警告:理紋浸食】(違う……) アルトリウスは額に手を当てた。(今の説明には……何かが足りない)「殿下」 マリアの声が静かに彼を包み込む。「あと少しです。今は儀式を進めましょう」「王となって、リオネールをお治めください」 その声は、染み入るような優しさを纏っていた。 彼女はいつも自分を癒してくれた。 彼女の前では、世界の歪みさえ気にならなくなる。 その事実が、彼の抵抗を静かに溶かしていった。(そうだ)(マリアが、言うのなら)(きっと――) 彼の手が、再び王冠へ伸びかけた。 だが、その時――脳裏に、もう一つの記憶が蘇った。 噴水の前。 月明かりの







